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会員の皆様からのお便り

会員の皆様からお便りをいただきました。どうも、ありがとうございました。
「ほおゆう」ではホームページへ掲載するため、会員の皆様から近況報告、エッセーなどの原稿を募集しています。随時、受け付けていますので事務局まで原稿を送付して下さい。

【平成30年】
・片寄 直行 <昭和51年卒業 放-7 >
   人生の扉 new


【平成29年】
・栗谷 正一 <昭和57年卒業 放-13 >
   「トレイル・ラン」って、楽しいですよ!

・守屋 雅光 <昭和57年卒業 放-13 >
   たかが管理職、されど管理職の9年間


【平成26年】
・片寄 直行 <昭和51年卒業 放-7 >
   30年ぶりの同窓会に感激


【平成23年】
・藤田 仁   <昭和47年卒業 放-3 >
   万年筆の思い出

・北川 明宏 <昭和51年卒業 放-7 >
   あっというまの35年

・三村 誠一 <昭和57年卒業 放-13>
   アリゾナ大学短期留学の思い出

・竹下 昌幸 <昭和59年卒業 放-15>
   今までを振り返って

・摺河 健文 <平成8年卒業  短-7>
   室戸のブリ釣り

・松下 利   <平成15年卒業 保-1 >
   手紙


【平成22年】
・穐山 恒雄 <昭和42年卒業 X-7 >
   PDFエックス線技師学校第9期生同窓会



「人生の扉」 昭和51年卒業(放7) 片寄 直行new

最初で最後のマル
 2018年5月のある日、我が家の物置の資料の片付けをしていたところ、私自身の学生時代の実験レポートを目にした。物理、RI、電子工学など計22のレポートにすごく懐かしさを覚え、読み返してみた。
 とりわけ、電子工学実験の山田俊治先生の朱色で書かれたコメントに注目した。
 「デンチャン」と私たちが呼んでいた電子工学の専門家・山田先生は、実に適格に問題点を指摘し、本質を突いておられたことに感銘した。1994年(平成6年)3月に岡山大学医療技術短期大学部を定年退官されたのを記念し講演された記録集を読んで、改めて先生の情熱と先見性に心が躍った。
 学生時代、2年生から電子工学の実験に入った。3人で班をつくって共同実験をし、順番に代表してレポートを書いた。ホイートストンブリッジによる抵抗の測定から始まった。私が電子工学分野のレポートを担当した実験は12件に及んだが、最初から山田先生の手厳しいコメントが続いた。
 例えば、予定していた同僚のレポート役が急遽、欠席となり、私が代役を引き受けたものの、予習もしてなく、有効な実験にならなかったのに対し、「実験は全員が勉強してきてグループでお互いに知識を交換しながら行うところに意味がある。よく反省せよ」と批判された。また、「図面書きは定規を使え」との指導も受けた。
 批判されればされるほど、頑張らなくてはと思い、実験がおもしろくなってきた。実験装置が故障して理論どおりの結果がでないとき、愚痴を述べつつ、その原因について考察したところ、山田先生は「理論どおりいくより、このように故障していて返って実験の意味がでてきたのではないか。」とコメントされた。
 卒業を前にした、3年生の1月末に行った実験は「真空技術」。真空技術を利用して鏡の制作とガラスへのコーティングをした際のレポート。しかし、ここでもまた理論どおりの結果が出なかった。コーティングすると光の反射が軽減され、コーティングしない場合より透過光量が多くなるはずが、逆に透過光量が少なくなったのだ。この原因について解明するため、カメラ毎日が発行していた雑誌を参考にして、考察した。「コーティングの膜厚が不適当ではないか。勘に頼っていたのでは科学性に欠けるし、あるべき姿ではない」と指摘した。この部分には朱色でマルがついていた。山田先生の実験レポートコメントでマルがついたのは、これが最初で最後だった。

創意工夫に満ちた電子工学実験
report  初期の頃の技師学校には予算が十分なく、苦労されたらしい。
 山田先生の実験テキストは昭和45年に製本されたもので29項目のテーマが記載されているが、実際に実験できたのは20〜22項目とのこと。しかし、私がレポート担当した「真空技術」や「サーボ機構」などはこの項目にはない、非公式のもの。山田先生独自のひらめきにもとづくものだったらしい。
 山田先生の記念公演記録集によると、サーボ機構実験装置を昭和48年度末に購入したとあるので、この実験は岡大技師学校では草分けだったようだ。全国的には昭和56年の学科課程改正時に自動制御実験が取り入れられているので、岡山は先行していたのだ。
 医学・医療技術の進歩により、その後、実験内容は変わってきているが、岡山の実験内容は、時代の先端を行っていたと言える。
 山田先生が実験中よく甲高い大きな声を出すことがあったが、その訳がわかった。
 昭和45年頃の学生から、就職して3、4か月すると、止めたいという者が増えてきたという。それは、技師長に叱られたからというのだ。だから、先生は、免疫づくりのために、実験で少し間違えると、大げさに叱り飛ばしたのだそうだ。この習慣が短期大学での女子学生の実験でも出そうで困った、とのこと。女子学生には優しかったのか、それとも、先生自身がシャイだったのかもしれない。
 学生の失敗を自らの課題としてとらえ、改善し、学生の鋭い質問に答えるために一生懸命勉強し、装置を自ら制作されていたことを思うと、頭が下がる。
 山田先生には、あるポリシーがあった。放射線技師の業務の多様性を考えるとともに、高度な実験の必要性を論じておられた。それは、卒業生がいつか技師長になり、機器の購入、見積、選定のため、機器メーカーと折衝する際、業者の技術者と対等な話ができなければいけないという思い。ただのスイッチマンになりさがらないよう、一生、勉強せよとの講演の結びは感動そのものだった。
 山田先生をはじめ、有能な技師を養成しようとする教師陣の意気込みはすごい。当時はなにげなく通っていた学校だったが、今、思えば、当時のさまざまな経験が人生を着実に歩む道標をつくりあげた。

学生時代の経験と私の人生
katayose  自分自身の人生で技師学校時代の経験がどう生かされたのだろうか。
 私が、生まれ故郷の島根県松江市にある松江生協病院に就職したのは、1976年。21歳の時。
 2年後には山陰地方で唯一、全身用CTを導入し、島根県をはじめ岡山県や鳥取県の患者さんの撮影を受けもった経験がある。横断面画像を読影するのは、医者も技師もともに大変だったと思うが、この装置の導入に意欲的に取り組んだのは、「患者の立場に立つ医療」を綱領に掲げている全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)に加入している松江生協病院の熱心な先生たちの決意による。
 機種選定、撮影、機器故障時のおことわり電話連絡、画像編集、メンテナンス、データ管理など多様な業務だった。当時、メンテナンスを担当する技術者は外国人の方が半分くらい。私は、片言の英語やドイツ語で、話しをして、故障の状況を伝えた。山田先生の狙う技師像に近づいていたかどうかはわからないが、若い私がなんとか任務を果たせたのは放射線技師職への誇りと向上心だと思った。
 その後、私は技師長の役をいただいたが、27歳で病院を退職。政治の世界に飛び込み、市議会議員として7期務めた。
 人生の折々に展開する新しい課題に直面したとき、扉を開く構えを持たせてくれたのが、岡山での生活だ。
 憲法を守り、戦争はしない、医療・福祉などの社会保障制度が充実される日本をつくるために、多くの人達と力を合わせて頑張りたいと思っている。

 島根県出身の歌手=竹内まりやの『人生の扉』の歌の想いを込めて。

(平成30年5月16日)

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「『トレイル・ラン』って、楽しいですよ!」 昭和57年卒業(放13) 栗谷 正一

トレラン  皆さん、トレイル・ランニング、通称「トレラン」ご存じでしょうか?トレイルとは、登山道や林道などを意味し、場所の高低に関わらず、舗装されていない主に山などの自然の中を走るスポーツで、最近人気で老若男女に幅広く広がりをみせています。この私も、4年程前からこのトレランを始めました。


  2012年 ダイヤモンドトレイル大会 32Km
  2013年 平尾台トレイルレース 42Km
  2014年 おんたけウルトラトレイル 100Km
  2015年 伊豆トレイルジャーニー 72Km(40Km 地点でDNS)
  2016年 六甲全山縦走トレイル 56Km (大会ではなく、個人で)


等、年1回ほど、トレイルレースに参加しています。

トレラン  この中で、やはり印象深かったのは、おんたけウルトラトレイル 100Kmです。
 この大会は、御嶽山(長野県)周辺の通常立ち入りができない国有林の林道をランナーの為だけに開放!そして、深夜0時にスタートする100Kmの大会です。ロードの100Kmは、過去何度か経験ありましたが、林道の100Kmは初めて。しかも0時スタートと言う今まで経験のない大会で、不安いっぱいの大会でした。
 そして、ロードと違って、エイドが少なく4カ所なので、自分で飲食物を準備しなくてはならず、私の場合、ザックに500mlのペットボトル3本、バナナ2本饅頭2個チョコレート数個、おにぎり3個等、そして途中トイレも無いので、携帯簡易トイレ等もザックに入れて走るという初めての大会でした。

トレラン  制限時間が20時間でしたので、怪我さえしなければ時間内完走は出来るだろうとは思っていましたが、やはり山の林道、林道と言っても殆どが小石がある砂利道で登りは歩き、下りは走るといった作戦で、無事15時間35分31秒でゴールすることができました。100Kmのトレイル・ランは、もううんざり!そう思った大会でした。

 次に、伊豆トレイルジャーニー。この大会40Km地点でDNF.。なんとその地点で、香川県から参加の知り合いの方が、低体温?か、痙攣で倒れていまして、他のランナー数名で看病、大会本部の医療班が来られるまで付き添っていたため、途中の関門に間に合わないことになってしまいました。山の中でのアクシデントに遭遇して、山の怖さを知った大会でした。

最後に、トレイル・ランのマナーを簡単に書いておきます。(ほぼ登山のマナーと同じ)
  1 気持ちよく「こんにちは!」の挨拶を!
  2 トレイルでは、登り優先!
  3 追い越しは、ゆっくり歩いて!
  4 トレイルを踏み外さない!
  5 山の生態系を守る!
  6 集団で走らない!
  7 ゴミは持ち帰る!
  8 携帯トイレを準備!
  9 自己責任の自覚を持って行動する!

 岡山県内でも、手軽にトレイル・ラン出来る場所もあります。
 操山、龍ノ口グリーンシャワー公園、倉敷縦走、鬼ノ城、総社福山、熊山等!
 何より自然を楽しみ、自然と一体になりながら走って、歩いて「遊ぶ」のがトレイル・ランの魅了ですので、皆さん、トレイル・ラン 始めてみませんか?

 尚、このエッセイは、岡山県診療放射線技師会 会報 No36 に掲載しています。

(平成29年9月11日)

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「たかが管理職、されど管理職の9年間」 昭和57年卒業(放13) 守屋 雅光

九州労災病院(中央放射線部スタッフ室)  定年退職して早いもので一年半が来る。定年前の9年間は管理職として勤務した。特に管理職(当時は技師長、数年前より部長)になりたかったわけではないが。長年勤務していた施設に限界を感じていた。それは、どうしようもない年功序列による弊害である。徐々に職場を変わりたいという気持ちが強くなって来ていた。
 毎年提出する身上調書に転勤希望を書いた。上司との面談もないまま、突如とある年の12月、技師長から昇進、転勤の話が本部から来ていると聞かされた。何でも、行き先は青森、関東、九州方面が候補にあがっているらしい。自分としては中四国地区を希望していたのでお断りをした。今考えると恐ろしいことをしたものである。後で聞くと、転勤を一度断ると人事部のブラックリストに載り、以後転勤の話はなくなるという噂であった。しかし、年があけた1月の終わりに再び本部から、近くでの転勤を考慮するという返答が来たそうであった。さてどこだろうか? 3月1日の内示日を待つのみとなった。
 奇跡的に出身地の施設への転勤となった。4月1日付けで主任から技師長へ昇格し転勤。全く知らない施設、面識のほとんどないスタッフとの遭遇である。スタッフの名前と顔、施設の状況、装置、部屋割り・・・、果ては内線電話番号までまるっきり知識ゼロからスタートである。何十年も務めていた施設で、何でも知って大きな顔をしていた自分は一体何だったのだろうか?と思いたくなるような日々の始まりだった。主任と技師長の立場のギャップにも驚かされた。まさに、quantum jump だ。高校時代の教師が「人間、長がつくどダメになる」と言ってたのを思い出した。管理職になるとダメになるということである。部下の意見を聞かなくなり、管理者の感覚になってしまい、現場を無視してしまうのだろう。そうならないようにと心がけようと常に思っていた。
 技師長になると主任の時には知る由もなかった他施設の情報が沢山入ってくる。一度転勤すれば定年までその施設で終わりだと思っていたのだが、現実は平均3年で転勤させられるということ。定年まで9年あるので2回は転勤しなければならないだろうなと思った。
 3年目が来ようとしていた。以前いた施設から戻って来いという声があった。どうも労働組合からみか? わずか3年で元いた施設に戻るような人事はないだろうと思っていたら、3月1日に現実のものとなった。以前いた施設に管理職で戻るのは嬉しいような気もする。しかし、スタッフ全員労働組合員の部署に技師長で行くのには少々不安が脳裏を横切った。ストの時の対応である。スト時には基本、非組合員の管理職一人で対応しなければならない。勤務時間内の1時間や2時間ならともかく、時間外宿日直拒否のストには参った。金曜の夕方から月曜の朝までストが決行されたことが何度かあった。救急のCT、 MRIなど出来る訳がないので保安要員を出してもらい、なんとかごまかしながらやり過ごした。日常業務じでは、以前は先輩だった人が今度は部下になるので、これはまた大変やりにくい状況であった。同僚であったスタッフは今度は部下で、以前とは立場が違い、人間関係の難しさを痛感した。この施設でそろそろ3年が来ようとしていた。子供たちも成人し遠くへの転勤も可能となってきた。更に、スト対応にもうんざりして来ていた。
 3年後の3月1日、再び転勤の内示が出た。今度は九州であった。遠いが新幹線沿線沿いなので幸運だと思った。この施設の放射線部は労働組合に入っていないのでストはないという事を事務局長から聞かされた。(看護部はほとんど組合だそうだが・・・)これでストから開放される。
 4月1日、当然の事であるが新スタッフとのご対面である。初出勤の朝のミーティングでどう挨拶したのかよく覚えていないが、楽しく仕事をしたい云々言ったような気がする。私が放射線取扱主任者と核医学専門技師の資格を持っているという事で、放射線管理や核医学検査などについて相談を求められたりすることが多かった。そんなこんなでスタッフとの信頼関係は比較的良好ではなかったのではと思う。2年目に2名増員となった。この施設は10年以上増員なしであったので、ぎりぎりの人数でやりくりしていた。スタッフ数は足らず、管理職が現場の穴埋めのため働いている施設もあるが、管理職たるものは現場で働くべきではないと思う。スタッフが足らなければ増員をするよう働きかけるのが管理職の役目だと思う。(自分が怠けたいというのが本音か?) 
 ともかく、これで自由なローテーションや新しいモダリティへの人員配置が可能となった。心カテと腹部血管造影が同時進行しても何の心配もない。放射線治療室への2名配置も可能となった。月に一回の主任技師を交えた会議と全体での会議は欠かさなかった。何でも報告、何でも話し会い、意見を言って情報共有に務めた(つもり)。また、月一回の持ち回りの勉強会も主任技師が企画してくれスタッフのレベル向上になったと思う。
 管理職の責務は、スタッフとの信頼関係の構築が一番の優先事項だろう。他部署、医局、看護部、事務局からの攻撃から部署を守らなければならない。時には攻撃しに行ったり。言いたくないことも言わなけれならない。逆に、言いたいことも言えないこともある。
 定年前最後の3年間、最も歴史ある労災病院一号店の九州労災病院に務めることが出来て幸せだったと思う。
 最後の3年間を支えていただいた九州労災病院中央放射線部のスタッフに深謝いたします。また、北九州技師会の飲み会や角打ち、温泉に連れて行っていただいた北九州在住の同級生、渡邊一史氏に感謝いたします。

写真:2016年3月末日 九州労災病院最終勤務日の朝(中央放射線部スタッフ室にて)

(平成29年9月11日)

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「30年ぶりの同窓会に感激」 昭和51年卒業(放7) 片寄 直行

放7同窓会写真  2014年11月23日、放射線技師学校第七期卒業生(昭和51年3月の卒業)を中心に約30年ぶりに同窓会を行いました。卒業したばかりの頃は7〜8回、毎年のようにしていたのに、事情があってずっとやっていませんでした。今年は、私自身、還暦で、妙に人生の歩みを思い出すのです。13人の卒業生中、物故者は2人。一時期を一緒に過ごした人にも参加してもらって、12人の同窓会となりました。感無量です。参加者のほとんどが放射線技師として活躍していましたが、二人だけ、別の道を歩むものがいました。一人は家業を継いで途中からお寺の住職になった人、もう一人は私、途中から市議会議員になった者です。同窓会ではいろいろな話がでて笑い転げたりしましたが、私たちの卒業式の当日の話に意外なことが思い出されたので、そのことを紹介しておきます。
 1976年3月19日、岡山大学医学部附属学校合同卒業式。校長は山本道夫教授でした。当日は午前9時30分開会のところだったのですが、放射線技師学校の学生がなかなか来ないのです。連絡用として使っていた教室の黒板をみると、『卒業式…10時30分開会』と書かれていたのです。
 もうひとつハプニングがありました。山本教授が卒業証書授与するとき、教授は『ちょっと待てよ』と証書を渡すのを拒まれた。本来は昭和51年3月19日卒業と書かれていなければいけない証書が、実は昭和50年3月19日と書かれていたのです。ふたつのハプニングで、厳粛な卒業式がお笑いに包まれたことでしょう。
 このたびの同窓会でもうひとつ、お笑いごとが発覚しました。13人の卒業生中、一人欠席でした。病気かなと思っていましたが、実は、卒業式の日にちを間違えていたそうです。よくもこんなハプニングが重なったことかと噴出してしまいました。
 30年間の営みは、私たちに老化の贈り物をしてくれました。しかし、声と性格は当時のままです。 同窓会の一か月前、島根県出雲市で原子力防災訓練があって、私は市議会議員として調査活動に出かけました。そこでスクリーニングの説明に一生懸命頑張っている人に目が留まりました。どこかで聞いた声とリズム。考え込みました。どこかで会ったことがある人。顔が少し変わっているが、音質とリズムは間違いなく、放射線技師学校時代の同期・北川明宏君。近寄って名札を見ると決定的に確信できました。広島県放射線技師会長を長年やった頑張り屋。島根県松江市出身の同郷の友でもあります。 同窓会では、その話題でも盛り上がりました。同窓生のみなさん!約束した4年後の同窓会で、また会いましょう。お互いの声とリズムを守りながら。

(平成26年12月30日)

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「万年筆の思い出」   昭和47年卒業(放3) 藤田 仁

 先日、友人の結婚祝いの返しで頂いた万年筆に、30年振りにインクを入れた。モンブランの万年筆であり、高級感漂うものである。早速、友人への手紙に使用させてもらったが、書き味は格別である。
 なぜ30年もの長い間、使用しなかったのか。それは、当時は使い慣れたもう一本の万年筆があり、書くのに不自由しなかったというだけのことである。そのうちだんだんボールペンの方を多く使うようになり、万年筆そのものが使われなくなってしまい、その存在感すら忘れてしまっていた。その存在感に気付かされたのは、手書きの良さが見直されつつあることからである。最近は、パソコン全盛時代であり、手書きで文章を書くことが少なくなった。しかし手書きの文章は、書き手の心まで伝わってくるようであり、独特の味わいがある。手書きといえば、やはり万年筆である。
 万年筆には思い出がある。中学に入学した頃、従兄が入学祝に贈ってくれたことがある。その頃高価であった万年筆は、我が家では簡単に買えるものではなかった。万年筆を使う授業では、誇らしく思いながら使ったものである。大切に使っていた万年筆であるが、何かの拍子に床に落とし、ペン先を傷めてから書き味が変わってしまった。本当に残念であった。
 定年を迎えた現在、手書きの文章の復活を願い、万年筆で書く文章に挑戦したいと思っている。一字ずつ心を込めて書きたい。相手を思う心が伝われば、手書きのメッセージとして活きてくる。相手に感動を与える文章はなかなか書けないが、せめて手書きのぬくもりだけは相手に伝えたい。

(平成23年6月)

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「あっというまの35年」   昭和51年卒業(放7) 北川 明宏

 昭和51年卒業の北川と申します、近況報告という事でお願いします。
 出身は島根県の松江市です。高校まで過ごし、放射線技師がどのような仕事をするのかも詳しくわからないまま岡山大学医学部付属診療放射線技師学校に入学し、先輩の稲村さん、同窓会 会長の大川さんたちに誘われてビヤガーデンでアルバイトをすぐに始め、麻雀とバイト三昧のスタートをきりました。今考えますとバイトは他の大学の人、そして夏休みになると岡山出身で他県の大学に行っていて帰省してバイトに来る人とか色々な人と友達になり、良い人間関係の作り方を大いに勉強させてもらい、お客さん商売ということで接遇に関しても技師になってからも大いに役立っていると思われる。
 昭和51年4月、広島県福山市にある日本鋼管福山病院に入社、日本鋼管(現JFEスティール)の企業病院です。先輩が3人、私で4人目(現在12名)。みなさん岡山大学の先輩で、当時の技師長さんは大学病院にもいらした一期の岡田さんでした。丁寧に、そして厳しく指導していただきました。
 福山・府中地域には、同級生が3人就職して(16人卒業中)いましたので研修会等で顔を合わすことが多く若い時は心強く感じたものです。
 さて、本題の近況報告ですが、技師になって35年が経ちそろそろ定年が近くなってきました。若い時から技師会活動に参加する機会があって、広島県放射線技師会の副会長を平成8年より、平成20年より会長に就任して4年目になります。公益社団法人移行認可を全国で最初に認定をしていただき、昨年度は公益社団法人として1年間を無事終えたところです。広島県放射線技師会としても世間の皆様に放射線技師という仕事をもっと知っていただくためにレントゲン週間のイベントを大々的に行ったところ、昨年はテレビ中継もはいり大変有意義なイベントとなりました。福島の原子力発電所の事故で同窓の方も多く応援に行かれたことと思います。広島から行った方が技師になってからこんなにありがとうといわれた事は今までなかったと言っているのがとても印象的なできごとでした。ほとんど休みもなく各地に出向いています。もう少しお世話になった広島県の放射線技師会の為にがんばりたいと思います。

我が家の家族
子供2人 31歳、26歳 どちらも男  妻  孫2人
そして大切な犬たちです。


(平成23年5月)

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「アリゾナ大学短期留学の思い出」 昭和57年卒業(放13) 三村 誠一

 月日が経つのは早いもので、私達の期が卒業して来年で30年が来ようとしております。同期の仲間も恐らく同じことを思っているのではないでしょうか。私がほおゆうの書記の職務を平成17年1月から担当してからもはや6年が過ぎました。そろそろ交代時期がきていて、もう若い人にバトンタッチしなくては「ほおゆう」の継続性が上手くいかないのではないかと心配しております。  ところで、私の変わった思い出を投稿します。もう8年も前になりますが日本放射線技術学会の海外短期留学制度で米国のアリゾナ大学へ短期留学(平成15年9月24日〜12月23日)できたことです。今でも9月頃になるとその時の経験が鮮明に思い出されます。Googleマップの写真でアリゾナ州ツーソン市のアリゾナ大学を見ると3ヶ月過ごしたアパートや研究施設や病院がはっきり見えます。留学の目的は最先端の診断用高精細モニターの管理測定技術を修得することでした。
 その当時を思い出すと毎晩深夜に自転車で帰宅していると、映画の如く空から軍用ヘリに監視される場面によく出くわしましたこと。日本語が全く通用しない研究室ではEメールが唯一の情報源だったこと。やっと出会えた日本人の薬学研究員の藤野さんと友人になり大変お世話になったこと。彼の仲間とKittPeakの天文台へ唯一遊びに連れていってもらったこと。感謝祭には七面鳥をハンス教授からご馳走になり、研究室の皆と教授の昔の写真を見たりして、教授の息子さんと親しくなれたこと。研究室の中国人大学院生のジャワ(現GE研究員)とほとんど毎日会い、色々留学生活について教えてもらったこと。夜7時からインド人大学院生のアマンと週2回病院内の高精細モニターを管理測定したこと。彼のアパートで留学生仲間と天体観測したこと。ハンス教授の授業を受けて出された宿題のレポートが難問で大変苦労したこと。教授と近くのBurst Centerでマンモグラフィー装置の半価層を測定してDQEを求めたこと。大学の卒業式や巨大反射望遠鏡の作製工場を見たこと。日本人会に参加してルビコンという会社の従業員の方と親しくなったこと。また、学会活動でRSNA(北米放射線学会)へ補助学生として参加したこと。そこで、赤木技師と松下技師(当時学生)に会い夕食を共にしたこと。RSNAの帰りにシカゴ空港で松下君からもらったA4サイズの紙がプラスチック爆弾に似ているといってカバンを強制開封させられたこと。日本に帰る時にサンフランシスコは大雨で、私が大荷物に苦戦していると、小学生の女の子に優しく手伝ってもらったこと。出国時には3ヶ月の間に増えた荷物を重量調整のために2つのカバンに均等にいれようと、難民のように空港で店開きをしたこと。等々思い起こせば切りがありません。
 しかし、昨年この町(アリゾナ州第二の都市:州都はフェニックス)で女性上議員を銃撃する痛ましい事件がありました。私も朝、洗濯をしようとしたら浮浪者の黒人が洗濯機の前で寝ていたり、シカゴの橋の上で新聞紙にくるまって寝ていた黒人の足を踏みそうになった経験もあります。今から思えば色々ありましたが、ガイドも無く一人で行ってカタコトの英語しか喋れなかった私がよく無事に戻れたとも思います。
 ただ今は懐かしい思い出ばかりで、機会があればまた行ってみたいとも思っております。
 私は現在、日本放射線技術学会中四国部会の事務局も担当しておりますが、海外短期留学制度を利用してシカゴ大学等へ、多くの「ほおゆう」の会員もおります。このアリゾナ大学のハンス教授は昔、東芝がI.I.を開発するときに指導した経緯をもつ研究施設でしたが、もう年齢も80歳近くになり留学生の受入れは難しいかもしれません。しかし、若い人たちは海外に出て技術を習得して、国際的な見地から日本を見る、医療を見るような経験を積まれて世界に羽ばたける人が出てくるのを期待しております。 どうぞこの制度をご利用下さい。
 尚、快く留学を支援して頂いた当時の門久前技師長をはじめ岡山大学病院の皆様には、3ヶ月の長きに渡りご迷惑をお掛けしたことをお詫び申し上げます。有難うございました。

(平成23年5月)

  (下の写真は、アリゾナ大学メディカルセンター)

Arizona

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「今までを振り返って」   昭和59年卒業(放15) 竹下 昌幸

 私が卒業したのは、今から27年前の1984年です。その当時はまだバブル景気の真っただ中で、今とは違い閉塞感など無縁の世の中に感じられました。そんな時代に新人技師となり、ただただ早く一人前の技師になることだけを考え頑張っていたように思います。
 当時当院では、CT、RI、血管撮影、放射線治療も有りましたが、我々技師の仕事はまだまだ一般撮影が主で、MRIなど有りませんでした。一般撮影も現在のCRシステムなど無く、フィルム・スクリーン(増感紙)システムでアナログに世界でした、ポジショニングはもちろんですがフィルムとスクリーンの組み合わせにあった撮影条件で撮影しないといい写真が撮れず、まるで職人技のような世界でした。なかなかいい写真が撮れず四苦八苦いていたように思います。今では見かけなくなった自動現像機も必須アイテムで、安定して現像できるように保守管理をするのも日課になっていました。現在当院では一般撮影は完全デジタル化され、撮影条件もデフォルトをもとに微調整して撮影するようになっています、便利ですが適正条件を身に着けるにはどうか?と思ってしまいます、私は古いのでしょうか。画像はPACS配信で一部を除いてほぼ100%フィルムレスになり、レーザーイメジャーがかろうじて残っているぐらいです、最近はフィルムを見ることは少なくなり、専らモニターを見ている毎日です。
 技師になって1年ほどたち、そこそこ一般撮影が取れるようになった頃、ほかのCTなどのモダリティーにも手をださせていただきました、CTも今のようにMDCTなどではなくヘリカルでさえありませんでした、1スライスずつ撮像するコンベンショナルCTで、体幹を撮影する場合オートボイスもないので、声が嗄れるほど息止めの声掛けを何十回もしていました。当然1検査にかかる時間も長く、検査数も少ない時代でした。
 3年目にはいったころRI担当なりました、その頃は当院では骨シンチやGaシンチなどが主で、やっとSPECTを回し始めた頃でした、今から思えば解析装置は超低速でしたがデヂタルの匂い感じた時期のように思います。 8年ほどRIをやっていましたが、当院にもMRIが導入されMRI担当になりました、20年近くも前の装置ですから当然今の装置ほど使えるシーケンスの数もなく、撮像時間も長いものでした、1検査1時間が当たり前の時代でした、それから現在までに何度か装置も更新され、当時では考えられないほどシーケンスの数もあり、撮像スピードも速くなっています、途中CTを担当したりしながら、現在もMRIを主にさせてもらっています、今おもえばMDCTが普通になり、CT、MRだけではありませんが技術の進歩が速く、新しい技術を必死で追いかけてきたように思います。
 今振り返ってみれば、ただ先輩の背中を追っかけていた新人だった頃がつい最近のようにも思いますが、気がついてみれば今は先輩より後輩のほうが圧倒的に多い立場にいます。私は決して勉強熱心でもなく、情熱をもって仕事をするというようなタイプの人間ではありません。しかし私の先輩方がそうであったように、私も後輩に背中を追っかけられるような技師になるよう努力したいと思います。

(平成23年5月)

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「室戸のブリ釣り」   平成8年卒業(短7) 摺河 健文

 今回私は、趣味のひとつである釣りで、その中でも太平洋(高知県室戸沖)のブリ釣りについて紹介します。私がこの釣りに出会ったのは職場の上司(川崎大学出身の今井さん)に誘われたのが最初のきっかけです。まず、最初に今井さんに室戸のブリ釣りは「魚釣りじゃぁねぇけぇの〜、漁じゃけぇの〜」と言われました。…(?_?)。船に揺られ、アタリを取りながら魚を釣り、天気の良い太陽の下でビールを飲み、…と楽しい釣りに胸を膨らませ、初回の高知県室戸ブリ釣りに行きました。土曜日の深夜(AM1:00頃)、今井亭に集合し高速道路(児島IC〜土佐南国IC)を利用して室戸岬漁港を目指して休憩しながらのんびり行きます。室戸岬漁港に到着後、車中で休憩・仮眠をとり、日の出前頃から何十隻もの大型漁船が颯爽と室戸岬漁港を出船します。我らがチャーターする漁船は第二金龍丸(盛本船頭は怖いけど優しいです)。ブリ釣りのポイントまでは30分〜1時間で到着します。波が高い時には隣の漁船が視界から消えます。船釣りを含めて今まで乗り物酔いをしたことの無い私ですが、太平洋の荒波に揺られて初めて乗り物酔いの辛さを体験しました。何かにつかまっていないと到底、立ってはおられません。ポイントに到着するとアンカーで船を固定します。船尾からの流し浮き釣りです(船尾での釣りなので定員は1隻に3人までです)。室戸沖(黒潮)は流れが速く、仕掛けの錘は300〜400号です。中通し発砲棒ウキは300〜400号、ハリスは10〜12号3ヒロ、針はヒラマサ15号1本針、クッションゴム3.5mm/1.5m。刺し餌、撒き餌ともにオキアミを使います。撒き餌を入れる編み籠もかなりの大きさ(マスクメロン?くらい)です。船頭さんに棚をとってもらって、さあ開始です。流れは速く、錘も重たく、撒き餌をしては少し流しての繰り返しです。(これがまさしく今井さんが言っていた漁だぁ、と思いました。)そして、魚(ブリ)が喰い付くと、ウキが一気に海中に消し込みます。(この瞬間は何とも言えない感動と興奮です。)流れは速く、錘は重たく、魚(ブリ)も大きいので電動リールが悲鳴を上げます。手動では到底巻き上げられません(が、初回の時、電動リールが巻き上げ途中で壊れてしまい、手動で巻き上げました。かなりきつかったです。これも、まさしく漁だぁ、と思いました)。遂に水面近くまで上がってくると勢いよく逃げ泳ぐブリが見えます。(このブリの洗練な動きも感動です。)仕上げは船頭さんの巧みな糸・タモ捌きによって獲り込まれます。昼前頃まで釣れても釣れなくても、撒き餌をしては少し流しての繰り返しです(昼頃には腕がパンパンです)。昼になると納竿して室戸岬漁港に帰港します。船から室戸岬が見えてくると、"ほっ"とし、漁港に着き、船から上がり足が陸に着くと、"ふわっ"とします(船に揺られっぱなしだったから?)。そして帰路の途中でいつも寄るラーメン屋で少し遅めの昼ご飯を食べて腹を膨らせ、睡魔と闘いながら帰ります。今までの釣果で最高は3人で32本です(が、ボウズの時もありました)。ここ数年間、室戸に行けていないのでまた行きたいなぁと思っています。室戸のブリ釣り、楽しいですよ〜。


(平成23年6月)

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「手紙」          平成15年卒業(保1) 松下 利

 大学を卒業して8年、社会人として働きだして6年、気付けば31歳になろうかと。現在私は、医療法人岡山画像診断センターで働いています。当センターは2006年4月に開院し、私自身、開院当初よりCT・MRI・PET/CTの撮影業務にあたると同時に、放射線取扱主任者としての業務にも従事してきました。 医療人として働いてきた中で、以前一通の手紙を患者様のご家族の方よりいただいたことを少しだけ紹介します。患者様は11歳の男の子で、発達障害に伴うADHD(多動性障害)様の症状があり頭部MRI検査を受診、そのお母さんからいただいた手紙です。
 「息子のために幼い頃よりあらゆる病院を訪問してきましたが、息子にもつらい思いをさせることが多く、私自身も肩身の狭い思いを幾度となく経験してきました。今回も検査させていただくことになり、心を痛めておりました。けれどもあの日、息子に大変優しく声をかけていただき、無理強いをせず、ゆっくりと時間をかけて対応してくださったことに大変驚き、感激いたしました。息子の頭を何度も優しく撫でて、一緒に頑張ろうと声をかけてくださったこと感動のあまり忘れられません。本当にありがとうございました。」
 手紙を読んだ後、胸に込み上げてくるものがありました。我々技師は画像を提供することが一般的な仕事になりますが、撮影以外に患者様のためにできることがあるということを実感しました。まさに「医療人冥利に尽きる」手紙であり、仕事をする上で励みになる手紙でした。今もこの時の手紙は宝物として大事にしまってあります。
 もし今、仕事に対して「時間に急かされてただ数をこなすだけのもの」のような認識をもった後輩がいるのであれば、一言だけ伝えたい。いつもよりほんの少しだけ多く、ゆっくりとその患者様に時間をかけてみてください。もしかすると、思いがけない一言をかけてもらえるかもしれません。その一言はきっと、仕事を苦痛で無味なものから楽しくやりがいのあるものに変えてくれることでしょう。
 「誰かを喜ばせることは、自分をも喜びでいっぱいにする。どんなに小さな事柄でも人を喜ばせることができると、私たちの両手も心も喜びでいっぱいになるのだ。」  Friedrich Nietzsche
 我々技師でも患者様を笑顔にすることはできます。そして、それはどんな形であれ必ずプラスになって自分に返ってきます。患者様と接する時間は短いものになりますが、その短い時間こそ精一杯患者様のために尽くしてあげたいものですね。

(平成23年5月)

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